本当の自分らしさって?
世間では「自分らしく」という言葉をよく聞きます。また「自分に正直に」という言葉もそうです。私はその言葉を聞く度に本当に自分を自分として捉えていれば良いな、自己中心や我欲を綺麗な包装紙で包んだ自己欺瞞でなければ良いなと思います。町田市にある教会の牧師、平野耕一先生が書かれた「私を映す鏡」という本があります。その本に興味深いことが書いてありますので少し紹介したいと思います。*****
◎鏡は語る
私たちは鏡が大好きです。 誰もが毎日鏡を見るのはなぜでしょう。それは第一にみっともない格好を人に見られたくないからで、みっともないところはないか、自分自身を鏡でチェックします。
しかし、私たちには外面だけではなく、自分の内面も知りたいという欲求があります。「自分」という人間がどういう者であるのか知りたいのです。そして、自分を知るには自分を映し出してくれる鏡が必要になってくるのです。私たち自身を映し出してくれる鏡です。
私が私を見て描いた私のイメージは本当の私ではありません。また、他者が私を見て描く私のイメージも私ではありません。他者が私を観察して私という人間のイメージを持ちます。そのイメージを通して私が作った私自身のイメージ、それが本当の私だということです。
つまり、私が自分を理解するために必要なのは他者が私をどう見ているかという目なのです。他者が私を観察し、他者が見たその目を持って私自身を見るという訳です。
◎娼婦を貴婦人に変えた鏡「ラマンチャの男」より
この物語にはアルドンザという女性が登場します。昼間は安宿の下働き、夜はそこに泊まる男を相手にする娼婦でした。幼い時に両親から捨てられた彼女が生きていくには、男から利用され、自分も男を利用するという道しかありませんでした。
しかし、ラマンチャの男は彼女に向かって「マイ・レディー(私の貴婦人よ)」と呼び掛け、貴婦人が持つような「ダルシネア」という新しい名前を彼女に与えます。
「ダルシネア」と恋い慕うように呼び掛けるだけではなく、彼女を真の貴婦人のように敬意をもって取り扱うのです。アルドンサはラマンチャの男のことを気のふれた者として相手にしません。周りにいる人々も彼のことを狂人扱いにします。
◎隠された本質を見る目
物語のクライマックスで騎士であるラマンチャの男は戦いに敗れて死の床についてしまいます。そこに、ひとりの美しい貴婦人が駆けつけます。貴婦人は彼に語り掛けますが、彼にはそれがだれであるのか分かりません。
「私のことを覚えておられないのですか。あなたは私にこう語ってくれました。『不可能な夢を見、無敵の敵に挑み、堪え得ぬ悲しみにも堪え、勇者も行かぬ地へ向かう…』と。あなたは私に新しい名前を与えてくれました。私をダルシネアと呼んで下さいました。…私はあなたのレディーです。」
ラマンチャの男は人々から馬鹿にされ、冷たくあしらわれていたのですが、アルドンサの本質、目に見えない姿を見ていたのです。身なりも言葉遣いも娼婦のようでしたが、この男は彼女の内にある気高さや美しさを見ることができたのです。
このストーリーの最後には正真正銘の貴婦人になったアルドンサの姿があります。
私たちが変えられるためには、どうしても私たちの本当の姿を見なければなりません。本当のイメージを持っていないと、私たちは変わることができません。
私たちは、このラマンチャの男のような人に出会う必要があります。誰かが自分の本当の姿、本質を見せてくれないと、自分ではその姿を見ることができないのです。
私たちは実にダイヤモンドの原石のようなものです。ミケランジェロは、ある大理石を見てこう言ったそうです。「ああ、私はこの中に天使が潜んでいるのが見える。」
ミケランジェロは、彼が頭の中で構想した天使を彫り上げていった訳ではないのです。石の中に天使が隠されているのが、彼には見えたのです。ですから、ミケランジェロの作品の場合、彼が天使を彫刻したというより、中に捕らわれていた天使を解放してあげたという表現の方が適切かもしれません。
私たちはみな恵みを必要としています。自分自身を発見するためには、誰かから恵みを受けたり、助けられたりしなければなりません。誰かが私の前に現れて、その人から私がどういう人間で、私のあるべき姿というものを教えてもらう必要があるのです。
◎新しい鏡が導く人生
心には人が語った言葉に対して共鳴する働きも持っています。イスラエル史上、最も偉大な王と言われるダビデは幼い時、ゆがんだ鏡を経験します。父親からも兄たちからもないがしろにされて育ったダビデは寂しい思いをしていました。自分のことを「みなしご」と呼んでいるほどです。
そんな彼に転機が訪れます。サムエルという預言者が訪ねて来て、父親に「あなたの息子のひとりに油を注ぎに来た。その人が王になる。」と言いました。長男から七男まで順次サムエルの前に出て行きましたが、みな退けられ、ダビデが呼ばれた時に神が「この者に油をそそげ」と言いました。ここでダビデは新しい鏡と出会うのです。
私たちは自分を見せてくれる人が必要です。興味深いことに私たちは自分の本当の素晴らしさというものを見ることが出来ません。偉大な王ダビデですら、自分の内に隠された本質、本当の素晴らしさというものを自分の力だけでは発見することが出来なかったのです。
実は私たちは真実の愛をもって愛された時に初めて自分自身を鏡に映し出す勇気が与えられます。自分の弱さや至らなさにもかかわらず、愛して受け入れてくれる人の前で、私たちは自分自身を包み隠さず表すようになります。
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イザヤ書43章4節
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
コリント人への手紙第二5章16節
ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。