価値あるもの
今回の退去に伴う片付けで写真を何枚か持ち帰ったのですが、その1枚が一昨日アップした祖母と私の写真です。京都奈良旅行には祖母と2人だけで行きカメラを持参していなかったので一体誰が写したのだろうかと記憶を辿っても思い出せず不思議に思っています。
あの年私は中途採用でとある会社に入社したのですが、なぜか新規採用の同年齢男性と同条件かつ地方勤務なのに東京ベースの給料をいただくという経済的にとても恵まれていました。そんなこともあって入社して半年経った頃に祖母を旅行に招待、それからお金を貯めて半年後に母を招待しました。
独特な装い
ところで祖母のもう1枚の写真をご覧ください。
皆さん、ご覧になって違和感を感じるのではないかと思いますが、帯はしていません。琉装のウシンチーという着方です。沖縄民族衣装-琉装 (okinawainfo.net)
帯がなくても着崩れることはなく、着物の中を風が通って涼しいようです。
祖母はウシンチー姿で着物どころ京都に行きました。お土産店の方々や観光客が帯をしていないケッタイな着物姿の祖母を見てコソコソ話したり笑ったりしていて、若い私は沢山の好奇な目に緊張しましたが、祖母は全く気にしていませんでした。
むしろ方言しか話せないにも関わらず自分から皆さんに近づいて行って「クレー(これは)琉装。オキナワ」と笑顔で話しかけていました。どうやって着ているのかと聞かれて祖母は身振り手振りで、しっかり笑いも取りながら説明したのでワタシが通訳 一気に場が和みました。笑顔の中心にいる祖母の姿に「やはり祖母はスゴイ」と感激したのを覚えています。
自分の価値
あの時は私の生活を見てもらう目的もあったので平日私が出社している間は私の部屋で過ごしてもらい、右も左も分からない土地に来て1人では出かけられないので夕方私が仕事から帰ってから街に連れ出していました。ところが母はずっと引き籠って私の帰りを待っていましたが、祖母は違いました。
当時私が住んでいたアパートの1階は市場でしたが、私が居ない日中に祖母は市場に降りて行って言葉が通じないにも関わらず買い物をしていました。
ある時一緒に市場に行ったらほうぼうから親し気に「おばあさん」と呼ばれ、次々とサービスして貰うほど人気者になっていてビックリしました。およそ半年市場に通いながら知り合いという知り合いもなかった私とは大違いでした。
祖母は小さくて華奢な人で読み書きが出来ず、言葉も方言しか話せませんでした。もちろんお金もありません。5歳で奉公に出されて以来ずっと無いないづくしの人生でしたから普通ならコンプレックスで委縮してしまいそうなものですが、いつも明るく堂々としていました。
人には色んな価値観があります。10人居れば10人それぞれの価値観です。そして、時流に影響される社会的価値観、評価というものもあります。もしそれらを自分の中心に据えるなら人は自分を見失い、嵐の中の大海の小舟のように世に翻弄されてしまうでしょう。
しかし、祖母はそうではありませんでした。祖母は何が本当に大切なものかを握っている人でした。ですから例え人から蔑まれようと心ない仕打ちを受けようと自分の魂を汚すことはしなかったのです。
人の価値は能力によるのでも地位によるのでも財政によるのでもない。それらのものが不要だと言うのではないが、それらのものを持っていても惨めで情けない人、人間としてどう生きるかを知らない知恵のない者はいるのだと祖母から言い聞かされたのは私が中学生の時でした。
目を留めるべきもの
怒り、怨み、憎しみ、妬みといった負の感情は努力せずして人の心に忍び込み、放置していると人格を侵されてしまいます。それに対して人を愛すること、愛し続けること、感謝すること、感謝を見いだすことには努力が要ります。
人の日常に感謝すべき良きことが何もない訳ではなくても、あまりにも当たり前のこととして見過ごしてしまうからです。しかし、それらのものにこそ目を留めるべきです。人が愛すること、感謝することに目を留めるならば心の思いが変わり、生き方が変わっていくからです。
ただそれには意志を働かさなければなりません。おそらく初めは少なからず努力が要りますが、やがて身についていくものです。若い頃に夫から「愛するというのは何があってもそうしていくという意志だ」と言われて安心した覚えがあります。
自分にとって愛すべき人とは誰でしょう。家族か、隣人か、それとも自分か…。その人を愛せているでしょうか。また、今日はどのような感謝があったでしょうか。
気になること、心配事がさまざまある中でそれらのものを一旦置いて少しだけ愛することと感謝なことに目を留める時間を持つことをお奨めします。
テモテへの手紙第一6章6節
満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。
伝道者の書9章11節
競争は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではなく、またパンは知恵ある人のものではなく、また富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではないことがわかった。すべての人が時と機会に出会うからだ。
生意気なことを、しかも大変長くなりました。ここまで読んでくださってありがとうございました。