ゆるり日記

息抜きに身の回りのことや聖書のことなど気の赴くまま書きます

今日の聖書

詩篇18篇6節

私は苦しみの中で主を呼び求め わが神に叫び求めた。主はその宮で私の声を聞かれ 御前への叫びは 御耳に届いた。

 

詩篇46篇1節~3節

神は我らの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても。その水かさが増して山々が揺れ動いても。

 

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轟音とどろかす雪解け水

 

今日の聖書

イザヤ43章18節~19節

先のことに心を留めるな。昔のことに目を留めるな。

見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。

あなたがたは、それを知らないのか。必ず、私は荒野に道を、

荒れ地に川を設ける。

 

イザヤ35章1節

荒野と砂漠は喜び、荒れ地は喜び躍り、サフランのように花を咲かせる。

 

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エメラルドレイクの周りで見つけました。

 

今日の聖書

ピリピ人への手紙4章6節~7節

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願いごとを神に知っていただきなさい。

そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

 

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厚い雲の上には青空があります。

 

今日の聖書

ローマ人への手紙8章28節

神を愛する人々、

すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、

神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、

私たちは知っています。

 

*  *  *  

  人生は四季に例えられ、芽吹き栄える時もありますが、渇く夏も凍える冬もあります。不毛と思える季節には確かな希望があってこそ耐え忍べるものだと思いますが、その希望が状況に揺るがされるものであっては耐え得ることは出来ないものと思うところです。「そのままで輝く」(森本英治著)という本があります。その本の中にこんなエピソードが書かれています。

『これはアメリカの話ですが、一組の初老の夫婦が国道のそばにレストランを経営していました。その味は評判でいつもそこには何台かのトラックが止まって繁盛していたのです。(中略)政府の方針でバイパスができました。すると忽ち車の交通は途絶え店に立ち寄る客足は遠のきました。遂にそのレストランを閉じなければならない状況に追い込まれたのです。「…自分たちはついていない、一体政府は何を考えているんだ。」そのようにつぶやき…愚痴を言って回る事もできました。しかし、この夫婦はこの不遇と思える出来事の中に、この失敗と思える状況の中に神が何を計画しておられるかを汲み取ろうとしました。何故なら聖書に「神を愛する者、すなわちご計画によって召された者たちのために神は万事を益として下さる」とあるからです。(中略)

彼らは二つの道が前にある事を知っていました。一つはその店を売ってその資金で養老院に入る事、もう一つはそれを元手にして新しい場所でチャレンジしてみる事でした。そうです。彼等は勿論後者をとりました。これは神が自分達に新しい祝福の門を開いてくれたのだと信じたからです。そしてもう一度初心にかえり、ひと工夫もふた工夫もし、新しい商品を生み出しました。それこそケンタッキーフライドチキンの始まりなのです。』

 

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バンクーバーで見た夕景

 

 

今日の聖書

詩篇121篇1節~2節

私は山に向かって目を上げる。

私の助けは、どこから来るのだろうか。

私の助けは、天地を造られた主から来る。

 

 

イザヤ42章16節

わたしは目の見えない者に、彼らの知らない道を歩ませ、

彼らの知らない通り道を行かせる。

彼らの前でやみを光に、

でこぼこの地を平らにする。

これらのことをわたしがして、彼らを見捨てない。

 

  

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6月のLake Louise

 

今日の聖書

コリント人への手紙 第二4章16節~18節

 

ですから、私たちは勇気を失いません。

たとい私たちの外なる人は衰えても、

内なる人は日々新たにされています。

今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、

測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ

目を留めます。

見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

  

   *     *     *     *     

 本州では終わりましたが、北海道では今が桜の見ごろだとか。ところで、私には桜の季節になるといつも思い出す話があります。

滋賀県東近江市に脳に重い障害を持つ仲間が暮らす「止揚学園」がありますが、その学園を創立した福井達雨先生のお話です。

随分前のことなのですが、私は教会の信徒が始めた小規模作業所深く関わっていて(残念ながら作業所は閉鎖されました)、作業所の記念会に福井先生を招いて講演をして頂いた時のこと。

 

福井先生が「僕は桜を綺麗だとは思いますが、美しいとは思いません。むしろ、葉がすっかり落ちた枝に葉が1枚だけ風になびきながらも落ちまいとすがりついている光景を美しいと思います。」と語られました。

それまで「美しい」と「綺麗」を分けて考えたことがなかった私は驚きをもってその言葉を聞きました。美しいとは華やかさではなく、逆境の中で必死に生きる、最後まで命の力を燃やすことと言う感性に感動しました。

 

また、こんな話もありました。学園の仲間が増えて人手が足りなくなり、厨房に野菜カッターを導入した時のことです。急にオネショをする人が増えたのでスタッフが集まって最近何か変わったことがあっただろうかと話し合ったそうです。変わったといえば野菜カッターの導入だけ。

しかし、仲間たちには野菜カッターを導入したことは伝えてなかったのでそれが影響するとは考えにくい。

 

それでも他に心当たりがないので試しにと野菜カッターを止め、もとの手切りに戻したらオネショがピタッと止んだというのです。仲間たちは手切りから器械切り、また手切りにと変わったことを知らなかったにも関わらず、敏感に感じて影響を受けたという話に人間の不思議を思い、やはり人間は見える世界だけに生きているのではないのだという思いを新たにしたのでした。

 

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このようなところから…