悔いのない明日のためにも
空気は冷たいですが、温かな11月最後の土曜日。
昨日は先日母に送った小包が届いたと施設のスタッフから電話がありました。母は元気にしているそうですが声を聞くことはできませんでした。
母が居るのは電話がある場所から離れているということもありますが、電話のそばにいたとしても会話は出来ないものと思われます。
それでも送った衣類を母が身につけ、残しがちのご飯にふりかけを掛けて美味しいと少しでも多く口に運んで貰えるだけで良いと思っています。
今の母は私に会って長い時間を一緒に居れば娘だと認識する瞬間があるでしょうが、短時間では難しいだろうと思っています。
かといって悲観的に考えている訳ではなく何かは伝わるだろうという微かな期待はあります。何かを感じる瞬間というものがあるだろうという期待でもあります。
2人の親の介護して認知症といっても個性があるものだと思ったものでした。姑はもともと言葉を持っている人でしたから認知症が進んでから「この年になると大切な人たちの多くが死んでしまうし、失うことばかりなの。長生きが良いのやら悪いのやら。自分は長生きしているという認識がありました。」と寂し気に漏らし、「あなたがたがいるので生きておれる。ありがとう。」と言ったことがありました。
かたや言葉の人ではない私の母は元気な頃から心情を吐露することはありませんでした。生き方は不器用ですが情には厚い人なので今も無表情、無反応の奥で感じる何かはあるのではないかというのが娘の期待であり思いです。
「人生100年時代」と言われています。これからは益々姑や母のように認知症を患った高齢者が増えていくでしょう。今は若くても高齢者の姿は他人事ではなく明日の我が身です。目を逸らしてもおろそかにしてもならないことです。
介護をして、いえ、させて頂いたことで心からそう思っています。
マタイ7章12節「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」