ゆるり日記

息抜きに身の回りのことや聖書のことなど気の赴くまま書きます

特別大切な日

今週は受難週で17日(日)がイースターです。日本ではクリスチャンでない方にはイースターは馴染みが薄いのではないかと思いますが、クリスチャンにとって信仰の中心となる特別大切な日です。

実は以前、クリスチャンの信仰の中心が何かを姑の在宅介護の記事の中で説明したことがありますが、介護関連の記事は殆ど全て削除してしまいました。今日は消してしまった記事を再掲することにします。

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在宅介護 虚ろに見えて実は熟慮中

その日の姑は朝から不調で何とか朝食は摂ったが、その後はいつものお気に入りの椅子ではなくソファでボーッと座ったまま動かなかった。私もまた久々の頭痛と体のだるさで介護がキツくて回復のために祈り始めた。祈り始めてすぐに「今がお義母さんに聞く時」という思いが私の中に迫ってきた。

「え、お義母さんはあんな調子で私もこんなに具合が悪いのに今?」と半信半疑だった。それでも自分の中の思いが消し難かったので姑のところに行って目の焦点が定まらず、のけぞるように座っている姑に声をかけた。

私が「お義母さん、少しお話があるのですが。」と言った瞬間、姑が半開きだった目をパッと見開き、居住まいを正して後、私をまっすぐに見て「何ですか?」と聞いた。

何の言葉も用意していなかった私は何をどう言って良いのか分からないまま、「あの、私も○○さん(夫)もクリスチャンですよね。」と切り出したところで、姑がいきなり「私も朝からずっとそのことを考えていました。信じます。」と言った。

傍目からはどう見ても虚ろにしか見えなかった姑が朝からずっとそのことを考えていた…虚ろではなく熟慮する姿だったとは。

 思いがけない姑の言葉に私のほうが驚いてしどろもどろになった。「あの…信じたら洗礼というのがありますが。」と言った私にこれまたハッキリと「受けます。」と答えた。あまりの急展開に飛び上がらんばかりに嬉しかったが、心を落ち着かせて一緒に祈った。

私たち夫婦は姑を何度も教会行事に誘い、聖書の教えについても姑に問われるままに答えてきた。そのため姑は私たち(*1)クリスチャンの信仰の中心が何かを知っていたが長年信じるには至らなかった。

おそらく家の跡取りであることが大きかったのだろう。それが、かつて舅の促しで一旦心を決めた時があったものの舅の死後は喪失が大き過ぎて決心が揺らぎ後退してしまった…私はそのことを残念に思っていた。しかし、その姑が自分から{信じます。}と言ったのだ。

すぐに仕事中の夫に知らせ、教会にも電話して洗礼式の段取りをした。家族全員がクリスチャンである義姉が喜んだのは当然だが、意外だったのは叔母が大喜びしてくれたことだった。

「あぁ~良かったねぇ。私も一緒に洗礼式に出ます。」と喜びいっぱいの顔で祝福してくれた。気がつくと私の体調不良は消え、いつも以上に元気になっていた。

そして、その日の夕方仕事を終えて帰って来た夫に姑が言ったのは「神棚を片付けてね。」だった。姑が妥協のない決心をしていたことに私はまた驚かされた。

ボーッと虚ろに見えた姑が朝からずっと考えていたこととは、もう何十年も前から私たちから聞いて知っていた(*2)福音についてと跡取りとしてけじめをつける決断だったのかも知れない。

 翌日の敬老の日に姑は教会で洗礼を受けた。93歳と高齢なので水には入らず滴礼にした。海外で仕事をしている娘は来られなかったが息子の家族と4世代が揃い、叔母も加わって聖なる祝福の時となった。

長年の祈りが答えられた私たち家族にとって大きな喜びだったが、姑も叔母も涙を流して喜び、共に手を取って感謝の祈りをささげた。

                  

 *1,*2 クリスチャンの信仰の中心、「福音」について簡単に説明します。

福音は「良い知らせ」という意味です。聖書には人は生まれながらに「罪人」だとあります。「罪人」は「犯罪者」とは違い、法律に違反したという訳ではありません。聖書のいう罪とは生まれながらに人の内にある怒り、憎しみ、怨み、偽り、ねたみ、自己中心…等々です。誰にでも心当たりがあることだと思います。

 完全聖であられる神様は罪に妥協することはできませんので罪人は神の怒りに会って滅びるしかありません。聖書ヘブル人への手紙9章27節には「人間には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっています。」とあります。罪のあるままでは永遠のさばきしかありません。しかし、人間を愛し、その滅びるのを惜しまれた神様は救う道を備えて下さいました。それがイエス・キリストの十字架です。

 福音とは「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに三日目によみがえられたこと」(コリント人への手紙第一15章3~4節)です。

すなわちイエス・キリストが罪人である私たちの身代わりとなって十字架の上で刑罰を受け、それによって私たちの罪が赦され、永遠のいのちが与えられているということです。

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3章16節)

「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」(ローマ人への手紙4章25節)

「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマ人への手紙10章9節)

救われることにより①罪の赦し ②神との和解 ③永遠のいのち ④新しい生き方が与えられます。

福音は神様から全ての人に差し出されている愛の贈り物ですが、それを受け取るか否かは個人の意思に任されています。受け取るとは自分が罪人であること、自分の内側には罪があることを認め、イエス・キリストが自分の罪の身代わりとなったと信じて、「イエス・キリストは私の救い主です。」と言葉で言い表すことです。

関心がありましたら詳しくはお近くのクリスチャンや教会にお尋ね下さい。

ここまでお読み下さって、ありがとうございます。