ゆるり日記

息抜きに身の回りのことや聖書のことなど気の赴くまま書きます

大切な存在だからこそ

息子が5歳から7歳の間に入退院を繰り返したことがあります。入院中は私が泊まり込みで付き添わなければなりませんでした。

夫は仕事がありましたので2歳の娘を夫の両親が預かってくれるというので感謝してお願いしました。

夫の両親は2人とも愛情深く、かといって不要に金銭を与えたり贅沢をさせたりしないので安心でした。

夫は仕事帰りに病院に寄り、それから実家で娘と会い、夕食を食べて自分だけ家に帰るという生活になりました。

最初の入院から1週間経った頃、夫が休日に娘を連れて病院に来るというので息子と楽しみにしていました。小児病棟に面会の子どもは入れせん。息子がどうしても妹に会いたいというので点滴スタンドを引いて小児病棟入り口まで行き、兄妹はガラス戸越しの対面になりました。

息子も娘も満面の笑顔で手を振って嬉しそうにしていましたが、母親の私は娘の様子を見て心を痛めました。娘は笑顔だったのですが私は彼女の心の荒みを感じ取ったのです。

娘は不安と寂しさの中にいる。それを放置していてはならないと強く思いました。

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その日私は夫に私が感じたことを伝え「仕事で疲れて大変かも知れないけれど、娘を預けっぱなしにしないで病院に来る回数を減らし、夜は娘を家に連れて帰って一緒に過ごしてほしい。そして翌朝また実家に預けに行ってほしい。」とお願いしました。夫は私の意図を理解してそのようにしてくれました。

娘にはあらためて状況を説明し「お父さんもお母さんもあなたのことが大好きで愛しているよ。頑張ってくれてありがとう。」と言ってハグをしました。

夫の両親に預けっぱなしのほうが楽ではあるけれど、娘の心のために親が頑張らなければならないという思いでした。

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私はあの時私が娘から受けた印象に間違いはなかったと確信しています。病気の息子に付き添って私も体は疲れていましたが心は祈りによって研ぎ澄まされていたからです。それは私の信仰の経験によるものでもありました。

15年ほど前のことです。教会の若いお母さんが育休を終えて1歳になったばかりの息子を保育園に入園させたものの毎朝大泣きして手こずっているという話を聞いていました。

そんな中、そのお母さんが病気になって入院が決まったというので彼女の母親が「孫は今であんななのにどうなるのかと思って。」と漏らしました。

そこで私はその若いお母さんに「子どもはまだ1歳だから何も分からないと思わないで、きちんと『ママはお泊りで体の悪いところを治しに行くけど、ちゃんと帰って来るから待っていてね。〇〇ちゃんのことを愛している。大好きだから帰って来るよ。ママは頑張ってくるから待っていてね。』としっかり伝えてハグして下さいね。」と言いました。

彼女は3ヶ月程入院していましたが、登園の度に大泣きしていた幼い息子が泣かずに手を振って入院する母親を見送り、退院するまでずっと穏やかで助かったとご夫婦から感謝の報告がありました。

子どもは小さくても1人の魂です。自分の思いを伝達する言葉がない年齢でも感じる心があり大人が考える以上に物事を察するものです。ちゃんと向き合えば不要に心を傷ませないで済むこともあります。

私の母の言動で不快なこと理解し難いことが間々ありました。「大人なのになんで?」と子どもの私は思ったものです。それが母の幼少期の心の傷からだと気づいたのは私が介護のために母としっかり向き合うようになってからでした。

幼い頃の傷みが90歳になってもなお癒されずにあって母の人生に悪い影響を与えていることに驚き、労わる思いを新たにされ、母の癒やしを祈るようになりました。

そんなエピソードを思い出したのはさとうみゆきさんのブログ「わたし歩記」の昨日の記事を読んだからにほかなりません。とても納得の記事でした。そして、気づかないまま傷みを抱え続ける人がどれだけいることだろうと思いました。

hanahiroinoniwa.hatenablog.com

愛があっても伝えなければ伝わらないことがあります。事情が事情だから仕方がないで終わらせず、分からないからで済ませずに、目を見て語りかけることです。

「親子だから(夫婦だから)言わなくても分かるでしょ。」で済ませずに、ちゃんと向き合い、「大切な存在だ」とちゃんと伝えることです。親子でも夫婦でも私たちはひとり1人違う存在ですから。